• 2020/04/24

起業家コロンブスの苦悩(後編)

コロンブス

1486年5月、コロンブスはスペイン王室のフェルナンド2世 (King Ferdinand) と女王イザベラ (Queen Isablla) に謁見していた。ポルトガル王室でやったのと同様に「西に航海すれば最短で東にたどり着ける」と数学的根拠も踏まえて熱弁したのだった。情熱のある人間のプレゼンテーションはいつだって人を魅了する。ポルトガルのジョアン2世もそうだったが、今回は女王イザベラを惹きつけ、改めてコロンブスの提案は海事委員会で検討される事になった。検討は数ヶ月に及んだが、委員会はまたしてもコロンブスにとって好ましくない結論をだした。

スペイン国王・女王を前に熱弁を振るうコロンブス
スペイン国王、女王を前に、熱弁を振るうコロンブス

しかしスペイン王室は、ジョアン2世のように提案の却下まではしなかった。それほど女王イザベラの興味は大きかったのだが、その当時スペインは国内を占拠するイスラム勢力ナスル朝 (Banu Nasri) と戦争状態にあり、財政的に臨時出資を出す余裕がなかった。そこで女王イザベラは提案に対して正式な結論は出さず「検討保留」とした上で、コロンブスに月々1,000マラベティを支給するのでスペインに留まるよう打診した。いつまで検討が保留になるのか?そもそも前向きに検討するつもりはあるのか?しかし夢だけでは食っていけない現実の前に魅力的な月額支給の提案…。なんとも煮え切らない思いでコロンブスはスペインに滞在する事になった。

フラストレーション

スペインとイスラム勢力の戦争が佳境に入っていた1488年、スペイン王室はコロンブスの月額支給を打ち切る決定をした。戦争が激しくそれどころではなくなったのだろうが、コロンブスはこれを自分への興味を失った意思表示と受け取った。失意の中、ポルトガルに戻る事も考えたが、同年8月に地元の女性との間に子供が生まれ身動きがとれなくなってしまっていた。

そこでコロンブスはポルトガル王室ジョアン2世に手紙を送った。だがこの時、16ヶ月の航海から戻ったバルトロメウ・ディアス (Bartholomew Dias) によって「アフリカ喜望峰の発見」と「インドへの道が開けた」事の報を受けたジョアン2世にとって、コロンブスの「西回り航路」はもはや興味の対象ではなくなっていた。

同時にコロンブスはイギリス王室 ヘンリー7世 (Henry VII) に望みを託し、弟のバルトロメウ・コロンブス (Bartholomew Columbus) をイギリスに送ったがこちらでも全く成果は得られず、早々に見切りをつけ、次の候補地に向かわせた。

バルトロメウ・コロンブスは兄コロンブスに代わり「西回り航路」の提案をフランスのシャルル8世 (Charles VIII) に披露する機会を得た。ここでシャルル8世は興味を示さなかったが、妹のアンヌ・ド・ボージュー (Anne De Beaujeu) が興味を持ち、バルトロメウ・コロンブスにとりあえずフランスに滞在するようにと「地図作成」の職を斡旋してくれた。コロンブスにとって少なくともこの時点で、フランスが一番可能性のありそうな場所となった。

1490年、スペインとイスラム勢力の戦いはいよいよ最終局面に入っていた。イザベル女王も自ら現地に赴き将兵の激励をしていた。イスラム勢力最後の拠点グラナダ (Granada) の包囲がまさに始まろうとしていた。

この状況の中で、コロンブスはフェルナンド2世と女王イザベラに再度提案をした。提案は改めて委員会に回されたが、この時の結論は明確な「却下」であった。しかしスペイン王室は委員会の結論に従う意思表示はせず、コロンブスに時節(グラナダの陥落)を待つ様アドバイスした。確かにこのタイミングでの提案は空気を読んでいるとは言い難い。思わせぶりなスペインに見切りをつけ、弟が待つフランスに行った方が良いのでは?とも思ったが、フランスにしても国王の妹に少し思わせぶりな対応をされているだけだ。フランスに行った所でどれだけのチャンスがあるか分かったものではない。グラナダの陥落ももはや時間の問題のように思われたので、コロンブスはもう数ヶ月様子をみることにした。

1491年、時間の問題と思われたグラナダがなかなか陥落せず、苛立ったコロンブスはついに行動に出た。彼はスペイン女性との間に生まれた息子を修道院に預け、一人フランスに行くと言いだしたのだ。果たして彼が本気でフランスに行くつもりだったのか、それともスペイン王室の反応を引き出すための芝居だったのか、それともその両方であったのかは分からないが、このあたりから運命は動き始める。息子を預けに行った修道院のフラン・ペレス神父 (Fray Juan Perez) がコロンブスに思いとどまるよう説得したのだ。以前、女王イザベラの懺悔聴聞師だったフラン・ペレス神父は使者を立てて女王イザベラに再々度の検討を依頼した。イザベラ女王からの手紙には、コロンブスに再度提案の場を与える事、そしてそこで着るドレスの新調代金と旅費として20,000マラベティを支給する事が書かれてあった。

1491年8月、新しいドレスに身を包んだコロンブスはサンタ・フェ野戦陣地にいた。ここで「西回り航路」の提案と委員会の結果を待つということを何度も繰り返してきたコロンブスは内心、今回こそは認可されると思っていた。旅費を出してまで自分を引き止め、イスラム勢力最後の拠点グラナダの陥落はもう目の前だったからだ。

グラナダの陥落、そして

1491年11月、スペインの包囲戦に善く耐えていたムハンマド11世 (Boabdil) だったが、外部からの救援が期待できない中、ついにイスラム教徒の権利や信仰の保全を保証するグラナダ条約に合意した。

グラナダ陥落 スペイン国王・女王を前に撤去するムハンマド11世
スペイン国王・女王が見守る中、グラナダを後にするムハンマド11世

1492年1月、フェルナンド2世と女王イザベラが城外に待ち構える中、ムハンマド11世はたった100騎の供をつれて立ち去った。ここにグラナダは陥落しイスラム勢力ナスル朝は滅亡した。待ちに待った戦争の終結にコロンブスの心は弾んだが、暫くして届いた報告はあまりにも残酷だった。委員会がまたしても西回り航路を「却下」したのだった。さすがのコロンブスもこの時は心が折れただろう。もうスペイン王室は説得できない、、、彼は最後の望みをかけ、弟が待つフランスに向かうためラバにまたがった。

謎の男による説得

ルイス・デ・サンタンヘル
ルイス・デ・サンタンヘル (Luis de Santangel)

その頃ルイス・デ・サンタンヘル (Luis de Santangel) 、王室財務官の役職だった男が、女王イザベラを必死に説得していた。ルイス・デ・サンタンヘルは自ら5,000,000マラベティを工面して王室に無利子で貸し付ける条件を切り札に交渉していた。「女王、もし西回り航路を発見できればスペイン王室が得られる利益は莫大なものになります。さらに、私が個人的に資金を無利子で工面いたします。」この提案に感激した女王イザベラはフェルナンド2世を説得し、土壇場でコロンブスの提案は承認されることになったのだ。女王イザベラはすぐに使者を立て、フランスに向けて旅立ったコロンブスの後を追わせた。コロンブスが丁度とある村の橋にさしかかった時使者が追いつきこの吉報が伝えられた。なんとも劇的な瞬間である。

1492年4月17日、サンタ・フェにて正式にスペイン王室とコロンブスとの間で契約が結ばれた。そこには当初の希望通り、コロンブスが発見した国での提督・統治者の地位と恒久的な利益を保証する内容が含まれていた。コロンブスが出資者を探し始めてすでに8年の月日が経っていた、、、この日は、まさに資金集めという「大航海」のゴールだったに違いない。

さて最後に、当時スペインはイスラム勢力との戦いの他にユダヤ教徒の迫害も行なっていた。コロンブスがサンタ・フェで契約する1ヶ月前、スペインに住むユダヤ人の国外退去を命じる布令が出されていた。

コロンブスがスペインに見切りをつけフランスに旅立った日、「資金を無利子で工面」してまで女王イザベラを説得した男、ルイス・デ・サンタンヘルとはいったどんな男だったのか? 実は彼の父はキリスト教に改宗させられたユダヤ教徒であった。つまりルイス・デ・サンタンヘルは隠れユダヤ人だった。30万人とも言われるユダヤ人の国外退去が始まった日の翌日(1492年8月3日)コロンブスを船長とする3隻の船団が出港した。そして、この船団には分かっているだけでも5人のユダヤ人が船員として紛れ込んでいた。

コロンブスが発見することになるアメリカは、この先ユダヤ人の新たな入植地となり、念願のイスラエル建国の際には真っ先にその正当性を承認する国となった。この民族の投資の奥深さはもはや桁違いで、我々の理解の及ぶところではない。