• 2020/07/16

病院船ブリタニック

病院船待望論

2020年3月30日、コロナウィルスが猛威を振るうニューヨークに1隻の病院船が入港した。米海軍病院船コンフォート号 (USNS Comfort):全長270メートル、ゼネラルエレクトリック式蒸気タービン2基1軸、集中治療室80床を含む合計1,000床のベット数を誇り、戦争地域はもとより災害地など医療を必要とする場所であれば、海が接する限り17ノットのスピードでどこでも駆けつける動く病院だ。コンフォート号の勇ましい入港の姿に多くの人が感激し勇気付けられる映像は日本でも報道され、突如として日本も病院船を持つべきだといった議論が持ち上がる事態になっている。日本も第二次世界大戦までは多くの病院船を持っていた。現在、横浜の山下公園で展示されている氷川丸も元は客船だが、戦時中は軍に徴用され病院船として使われていた。

客船ブリタニック号の生い立ち

今から約100年前の1915年、1隻の病院船がイギリスのハーランド・アンド・ウルフ造船所(Harland and Wolff)を出港した。船の名前はブリタニック号 (HMHS Britannic):全長269メートル、レシプロエンジン2基と低圧タービン1基、合計3軸。スピード21ノットで、3309床のベットの収容能力を誇る。コンフォート号にも勝るとも劣らない病院船だ。

ブリタニック号

この優美なシルエットからも気づかれた方もいるだろうが、彼女はあの悲劇の豪華客船タイタニック号 (Titanic) の姉妹船だ。発注者もタイタニック号と同じホワイト・スター・ライン社 (White Star Line) で、タイタニック号同様アメリカとヨーロッパ間を運航する高速豪華客船になる予定だった。1912年4月に起こったタイタニック号の沈没事故により、ブリタニック号にはいくつかの設計変更が施される事になった。まずそもそも定員の数に足りない救命ボートの数が見直され、ボートを水面に降ろすまで時間のかかる手動のダビットを電動の大型ガントリータイプに変更した。さらにタイタニック号では船内に水密区画がなく、一度浸水が始まるとその区画から隣の区画へと浸水が拡大してしまう問題があった。ブリタニック号では完全な水密区画を作り、仮にある区画で浸水しても水密区画には拡大しない設計に変更した。そして最後までS.O.S信号を送り続けたタイタニック号の通信士ジャック・フィリップス (Jack Phillips)の死の教訓から、沈没の際、最後まで船内にとどまり救難信号を発信する通信士の専用脱出経路も配慮されることになった。

大きな設計変更により、予定を大きく遅れて進水した豪華客船ブリタニック号であったが、彼女が進水した年に勃発した第一次世界大戦によって彼女の運命はさらに変わる事になる。1914年6月28日のオーストリア皇太子夫妻暗殺に端を発したオーストラリアとセルビアの戦争は、瞬く間にドイツ、ロシア、フランス、そしてイギリスを巻き込んでいった。

進水を終えたブリタニック号は引き渡しに向けて内装などの艤装工事を続けていたが、戦争による資材不足からその作業は遅れがちだった。その間にも戦争はどんどん拡大し、ついにトルコのオスマン帝国が敵方ドイツについて参戦、イギリスは大陸だけでなく地中海の戦いに本腰をいれなければならなくなった。イギリスは軍事行動における船舶不足を補うため民間の船の徴用を始め、ついにブリタニック号も病院船として徴用される事になった。

2回目の仕様変更をすることになったブリタニック号は、客室やパブリックスペースを負傷者を収容するスペースに改装し、ダイニングルームは手術室に変更された。特に大きな仕様変更はやはり救命ボートだった。もともと客船として乗客乗員1800人の定員を想定していたが病院船になり定員が3300人に増えた。そこでタイタニック号とおなじ手動式Wellinタイプのダビット(救命ボートの昇降機)を戦時の急設という形で増設し合計58槽の救命ボートを装備する事になった。船体の色も客船の優雅な黒から白地になり、緑のストライプと目立つ形で赤十字のマークをあしらう事になった。

病院船ブリタニックとして

ついに全ての準備を終えた「豪華客船ブリタニック号」改め「王室病院船ブリタニック号 (His Majesty’s Hospital Ship (HMHS) Britannic) 」は、1915年12月看護婦100人を含む600人の乗員をのせリバプールを出港した。ギリシャのリムノス島で3300人もの戦傷者を収容したのち、1916年1月無事にサウサンプトン港に戻り病院船としての最初の責務を果たす事ができた。

ブリタニア号の最後の航路

1916年11月、6度目の航海となるブリタニック号は77人の看護師を含む1065人の乗員と共にリムノス島を目指しサウサンプトン港を後にした。燃料補給で立ち寄ったイタリアのナポリ港で天候の回復を待ち、11月19日に再出港した。途中メッシーナ海峡を通過、ギリシャ最南端のマタパン岬を周り、最高速度の21ノットで一路リムノス島を目指した。

ケア島沖を通過しようとしたのは11月21日の朝だった。8時12分、突如船首に大きな爆発が起こった。この爆発がドイツUボートによる魚雷攻撃によるものなのか機雷の接触によるものなのかははっきりと分かっていないが、この爆発でタイタニック号の事故を教訓に改装された5つある水密区画の4区画が瞬く間に浸水した。さらにこの水密区画とボイラー室をつなぐ防水扉が閉まらず、海水が第6ボイラー室に流れ込んだ。ボイラー室は水密構造になっていないので、海水はすぐ次の第5ボイラー室にも流れ込んだ。5つの区画まで浸水しても耐えられるよう設計されていたブリタニック号にとって、水密区画4つとボイラー室2区画、合計6区画の浸水は沈没を意味していた。

爆発から15分で船は絶望的な状況になったが、船長は右手前方約3マイルに見えるケア島までなんとかたどり着いて船を座礁させ沈没を免れようと最後まで諦めなかった。船尾がせり上がり、舵とスクリューが海面の上に顔を出してる状態になっていてうまく操舵できなかったが、それでも最後の力を振り絞って全速面舵をとった。

同じころ、船上の乗員はパニックに陥っていた。タイタニック号の姉妹船という事実も恐怖心を煽る要因になっていただろう。船長による退船命令が出ていないにも関わらず、看護婦を中心とした乗員が我先にと救命ボートの準備をしていた。定員に満たない人数を乗せた救命ボート2槽をすごい勢いで海面に落としたが、2槽とも海面上をすごい勢いで回転しているプロペラに巻き込まれあっという間に粉々になった。

そんな悲劇が起こっている事を知らない船長は、想定以上に早く沈んでいく本船の状況を見てケア島までたどり着く事は無理だと判断した。8時35分、爆発からわずか30分、船長はエンジンの停止を命じ退船命令を出すに至った。傾斜が激しく救命ボートを下ろす作業は難航したが多くの乗員が退船することができた。

8時50分、傾斜の速度が遅くなっていると感じた船長はケア島に座礁する2度目の試みを決断しエンジンを始動させたが、すぐに艦橋下まで海面が迫るほど船は傾斜し、9時00分ついに船長は残りの船員も退船する決断をくだす。ブリタニック号がタイタニック号同様船尾が上がる形で沈没したのは爆発からわずか55分後の9時7分のことであった。

ブリタニック号の沈没した海の温度は高く、数度の改修により十分な数の救命ボートがあったこと、そしてすぐ近くに泳いでたどり着ける島があったという条件が揃い、1065人の乗員のうち1035人が助かった。そのことが同じ運命を辿りながらも姉妹船タイタニック号と比べて圧倒的に知名度がない理由であろうが、悲劇を繰り返さない為の改修がこういった形で証明されたことに喜びを禁じ得ない人はいないだろう。