• 2020/05/11

繰り返すクライシス(前編)

プラザ合意(1985年9月)

1983〜1985年、世界最大の貿易黒字国となっていた日本に対して、諸外国は貿易不均衡の是正圧力を高めていた。1985年9月22日、ついに政府は外圧(特に米国)に負けプラザ合意に至り、その翌日から突如として為替の暴落(円高)が始まった。1ドル230〜250円台で概ね安定して推移していた為替が、わずか6ヶ月間で170円(65円の円高)になり輸出企業は大打撃を受けたが、円高はさらに進み約2年後の1987年12月にはついに120円台に突入することとなる。この予期しない急激な円高は当然のことながら日本の海運、特に造船所並びに船会社に大きな負の影響を与えることとなった。

日本の造船所は

人件費の安さ、作業効率の良さ、そして品質の良さから日本の造船所は建造トップシェアをヨーロッパから奪いその地位を確固たるものにしていた。将来ライバルとなる韓国もようやく造船業に力を入れ始めていたが、まだまだ日本を脅かすような存在ではなかった。したがって海外の船会社は新造船の建造で日本の造船所を避けて通ることができず、新造船輸出価格は円建てというのが当たり前の業界となっていた。

そのような中、OECDが日本の造船独り勝ちをやり玉にあげた(自動車産業もやり玉にあがったが、これは米国からだった)。それに対して日本の造船業界は総量規制という自己規制を行うことで建造量を自主的に減少させる方策を採用しOECDの攻撃をかわしたが、この自主規制により各造船所は建造能力の6〜7割程度しか建造できなくなってしまった。

資金的に余裕のある大手造船所はともかく、中小の造船所は会社存続のため、より売り上げの大きい船の受注に注力するようになる。そこで注目されたのが海外の船主からドル建て価格で受注することであった。海運業界の基軸通貨はドルであるにもかかわらず日本の造船所が世界の新造船をリードしていた為、海外の船会社は泣く泣く為替リスクを負って円建て価格を受け入れてきたが、突然日本の造船所の方からドル建て価格が提示されるようになり、海外船主は多くの新造船を日本の中小造船所に発注した。

このようにして日本の造船所は自主規制をものともせず我が世の春を謳歌するかに見えたが、この契約通貨の変更とプラザ合意が重なったことで、とてつもない嵐に巻き込まれてしまう。

某造船所は当時パナマックス型バルカー(約65,000トン)を50億円で建造していた。当時の同型船の世界的相場は2600万ドルであったが、その造船所は2400万ドルという価格で3隻受注した。2400万ドルはプラザ合意前の為替で日本円に換算すると50億円以上の「価値」があり造船所にとってありがたい金額であっただけでなく、発注者にとっても当時の相場より安く、両者がWin-Winの関係にあった。ところがプラザ合意による急激な円高により、造船所が手にできる日本円が35億円程度に目減りし、1隻あたり15億円、合計45億円もの損失をだすこととなった。

日本船主は

それまで中小の船主が保有・運航していた内航船あるいは近海船の傭船者は、その殆どが日本の船会社であり傭船料の支払いも円建てが主であった。内航船はともかく、近海船の傭船者は荷主からもらう運賃がドルであるため為替のリスクをある程度船主にヘッジするようになり、ドル建て傭船料が徐々にではあるが増えていった。船主は船舶建造にあたって船価の90%〜100%といったハイレバレッジの円建て融資を金融機関から借入していたが、当時の為替が230円くらいで安定していたためドル建て傭船料になることにそれほど拒否反応は示さなかったことからドル建て傭船料は急速に広まった。その際、採算予想は安全水準と思われた200円を損益分岐点とすることが多かった。

しかし、プラザ合意による急激な円高で傭船料収入は円換算で激減し、金融機関への返済ができなくなってしまった。1986〜1988年に廃業・淘汰された船主は数えきれない。しかし、それまでとは違う発想の船主が異業種から参入してきたのもこの時期であった。金融機関に約定通り返済ができない船主に対し、当時の金融機関は担保物件である船舶を即刻売却処分することを要求した。売却価格で融資残額を弁済できないのは分かっていたが、金額はいくらでも良いから時間をかけずに売れる価格で売ってしまえという姿勢であった。つまり船舶融資から早く手を引きたかったのだが、このような方策がとれたのも日本にバブル景気が始まっていたため金融機関に余裕があったからだろう。

当時の逸話として聞いた話

当時、総合商社丸紅の船舶部にいた筆者の父から聞いた話を引用したい。1986年マーケット価格より安いと思われる中古船の売り船が日本からでてきたので、ノルウェーの船主に購入の打診をした。その船主は購入資金を潤沢に持っており購入する意欲も満々であることは分かっていたが、なぜか首を縦に振らない。 

父は彼に「こんなに良い条件なのになぜ買わないのか?」と聞いたところ、彼の回答は「まだギリシャ船主に買い気配がない」というものだった。当時も今も業界ではギリシャ船主が買いに走った時が買いの時期、売りに走った時が売りの時期という合言葉がある。ギリシャ船主は〜船舶は安い時に買って高い時に売る〜という単純なルールを決して曲げず、そのタイミングを逃さないための情報量とキャッシュは他の追随を許さない。「もうすぐ日本の金融機関主導で日本の誰かが損した船が大量に売りに出る。その日本の損が我々の儲けになる。その時こそが買いの時期だ」ということであった。結局このノルウェー船主は日本の船主が1400万ドル台で発注した42,000DWTのバルカーを竣工と同時に何と半値の750万ドルで購入した。それも2隻!日本で損を被ったのが金融機関なのか、船主なのか、はたまた造船所だったのかは定かではないが、兎に角このノルウェー船主は大儲けした。ちなみに筆者の母がたの祖父は、長年勤めていた三和ドックを退社し、資産をなげうって28,000DWTのバルカーを発注したのも、ちょうどプラザ合意前だった。夢の船主としての第一歩を踏み出そうとした矢先に為替の暴落が始まり、たちまち返済が滞ることとなった。結局、金融機関の主導のもと船を処分したが、その処分した金額では返済しきれず最終的に個人で莫大な借金を負うことになる。