• 2020/08/21

海賊キッドの財宝物語 ① 〜海賊事業の計画〜

裕福で若く美人な未亡人と結婚し、ニューヨークで指折りの資産家の一人となった海運貿易商のウィリアム・キッド(William Kidd)はウォール・ストリートに住居を構え、アメリカ植民地政府の要人とも親交を持つニューヨークの名士だった。

ウィリアム・キッドは1695年の夏、商売で訪れていたロンドンで以前から親交のあるロバート・リビングストン(Robert Livingston)と再会し、私掠(しりゃく)船の船長をやらないかとビジネスの話を持ちかけられた。私掠船(Privateer) とはイギリス国王から「私掠免許状(Letter of Marque)」という免許をもらい敵対勢力の商船を襲い、積荷の略奪が特別に許される海賊船のことだ。

ウィリアム・キッド (William Kidd)

リビングストンによると、マサチューセッツ湾植民地総督のベラモント卿(Load Bellamont)が、イギリスの植民地貿易を妨害する海賊討伐の私掠免許状を特別に陛下からいただけそうで、この計画に資金を出す出資者と信頼できる船長を探しているというのだ。スコットランド出身の船乗りで、ニューヨーク移住前には別の私掠船船長の実績もあり、貿易商として堅実な地位にいるウィリアム・キッドはまさにうってつけ人物だった。

ウィリアム・キッドはベラモント卿の海賊ビジネス計画のメンバーに参加することになった。

ベラモント卿が奔走し、最終的に陛下から発行された私掠免許状は、イギリス商船を襲っている海賊を退治することを第一としながらもフランスを始めとする敵対国の商船を略奪して良いという内容だった。

事業に使用する船は1695年12月に建造されたばかりの「アドベンチャー・ギャレー号(Adventure Galley)」が選ばれた。この船は23対のオールを使って無風状態でも前進でき、海戦に便利な小型4ポンド砲を34門も装備した最新鋭の船だった。当然、船の値段は高く、最終的に必要な出資総額は7,500ポンドにのぼった。中心メンバーのベラモント卿は、所属する政党内の大物政治家4人を説得し、ベラモント卿本人の名義で合計6,000ポンドを出資した。ウィリアム・キッドとリビングストンの2人が残りの1,500ポンドを出資することになったが、船長になるウィリアム・キッドはさらに20,000ポンものパフォーマンス・ボンドにサインすることになった。これは、もし船長の過失により事業が失敗した場合、ウィリアム・キッド(というよりも彼の嫁)がニューヨークに所有する広大な土地を処分して、出資者の損害を補填する一種の保険だった。当時、私掠船の船長がパフォーマンス・ボンドにサインする事はよくある話だった。

事業計画の中では利益の分配方針も取り決められた。最終的な利益のうち①まず10%は免許を発行した陛下の取り分として、②残りをベラモント卿(とその裏にいる4人の大物政治家)60%、ウィリアム・キッドとリビングストン15%、船員25%の割合で分配することになった。

月給のような定期収入がない船員は、略奪から得られる利益の分配が全ての完全歩合制の雇用形態だった。ひとたび海にでれば何年も帰ってこれず、戦闘や壊血病で死ぬ確率が高い過酷な海賊業で、それなりの利益分配をもらうのは船員の当然の権利だ。「利益の半分は船員に」というのもざらにある中で、事業計画で決まった25%はあまりにも少なかい取り分だった。

戦争で極端な船員不足が発生している中、この魅力のない分配で集まる船員はいなかった。150人の募集に対して、ようやく集まったのは、質の高くない船員がたった70人だった。

ウィリアム・キッドは早々に募集を打ち切り、地元のニューヨークで残りの船員を集めるべくロンドンを出港することにした。こうして1696年3月、のちに財宝伝説を残し処刑される「海賊キッド」の長い航海が始まった。

アドベンチャー・ギャレー号の航路 1696年3月〜7月

蛭田将司

2020年8月21日